新しいネットメディアの構築に向けて

新しいネットメディア構築の目的及び活動主旨

テレビや新聞など既存マスメディアの報道を監視し、報道内容の真偽をフォロー(追求/補助)する役割を担う。

報道関係者達からの一方的な思い込み取材によって、主にテレビなどの影響力のあるメディアを利用して特定個人に対して貼り付けられたまま放置されている不当なレッテルを剥がしていく。(商店街のシャッターの落書きを消していくような作業)

NHKや民放の各種放送会社などが公共の放送電波を悪用し、テレビなどを通じて不特定多数または特定個人向けに行っている不気味で陰湿な印象操作や、メディア・リンチなどから善良な一般市民を守る。マスメディアによって蹂躙された一般市民の人権侵害の回復。

メディア・リンチに該当すると思われる事件の例
奈良騒音傷害事件 - Wikipedia
この事件は、何らかの権力や圧力によって情報操作された事件であったと個人的には判断しています。奈良騒音障害事件に関するネット上でのニュースをいくつか見ていくと、明らかに報道加害と思われる印象操作がテレビを通じて行われていました。このような報道加害を行ったマスコミ関係者に対して人権侵害の罪(名誉毀損罪 侮辱罪 個人情報保護法違反)が適用されてもおかしくない事例であると私は思っています。

ネットメディアに携わる個人の情報発信者に求められていること
・ニュースソースをはっきりと明示。事実確認をしっかりとする。
・読者または視聴者に不快感を与えるような表現を使用しない

4/11 極めてオープンでソーシャルな場であるtwitterを通じて、NHKに対して以下のような通告文を出しました。

shibunet
NHKへの通告。私たちは、NHKや民放の放送会社などが公共の放送電波を悪用し、テレビなどを通じて特定個人向けに行われている不気味で陰湿な印象操作から善良な一般市民を守る活動をしています。もうこれ以上、一般市民を犯罪者に仕立て上げるのはやめてください。 #NHK

なぜ今、教育改革が必要なのか?

今回は日本の教育問題について

最初に私個人の過去の経験から言わせてもらうと、日本の学校に通った時間が本当にもったいなかったなぁって感じがするんですね。大半がお金と時間の無駄な投資に消えちゃったと。何をやるにしても集団で何かすることを強要されて、個人がそういう集団でのイベントに反対するのがほとんど無理な雰囲気が蔓延していました。意思表示できるとすれば学校を欠席するぐらいでしょうか。つまり、まったく生徒個人の意思は尊重されないのが日本の学校なわけです。〜をしない代わりにこれをしなさいっていう選択肢すら与えられていませんでした。まるで"自分の頭で何かものを考えちゃイケナイのか?独立した意思を持って行動しちゃいけないのか?"と、今考えてもおよそ理不尽で気持ち悪いおかしな日本の教育現場を身を持って体験してきたわけです。客観的に見ればどう考えても「ダサイ集団行動」を強要されてきたわけです。例えるなら北朝鮮で無理やりマスゲームをやらされるようなもので、まともな感覚の持ち主であればストレスしか溜まらないでしょう。そんなわけで、僕の学生時代にはあんまりいい思い出がありません。

本の学校は生産性の低い単純労働者養成施設

本の学校の大半が今でもそんな感じだと思うのですが、そのような個人の意思をまったく無視する全体主義思想による教育では、極めて生産効率の低い単純労働者しか生まれません。日本の旧態依然とした全体主義集団主義的学校教育が、いかに日本の子どもたちから自由な意思を奪い、個のポテンシャルを破壊し続けているかを皆さんはどれだけ認識しておられるでしょうか?相変わらず日本の学校教育では、「協調性」であるとか「和の精神を育む」と称して、子どもたちに徹底的に平均化・均質化思考を植えつけていきます。ノーマルであることが一番であり正しいのだ!という教育です。好きでもない歌を集団で歌わなければ協調性がないと判断されてしまう。それが日本の教育現場の実態です。

今まではそれでよかった

100歩譲って今まではそれでよかったってことにしても、今後は中国やインドなど大量の労働者を抱える国が、今まで日本人がやってきた単純労働を奪っていくことになります。単純労働が中国や東南アジアにシフトしつつあるのに、日本の学校が単純労働者の生産を続けているようでは、将来的に日本の経済が立ち行かなくなるのは目に見えています。だからこそ、より一層の教育改革が必要になってくるのです。

子どもたちの才能をしっかりとスクープし、それぞれの子どもたちに相応しい環境を与えることでその才能をさらに伸ばしていけるよう、充実した教育環境を整えていくこと。それがこれからの日本の教育現場の課題ではないでしょうか。日本がこれからも経済的に豊かな生活を維持していくためには、没個性的な凡人ではなく、専門的知識と技術を持った特異なスペシャリストに対してしっかりと評価を与えていくことが求められているのです。

画期的なイノベーションが生まれやすい社会へ

これからの日本の教育現場ではそういった人々を育成していかなければならないのです。そのためには我々自身も時代の流れと共に価値観や意識を変えていかなければなりません。もっと個人の才能を認めよう。多様性のある社会を認めよう。例えば特異で異端な能力を持った天才児がいたとしたら、その子の特別なスキルを最大限に活かしていけるような社会にしていこう。そういった優秀な異端児をしっかりと地域で育める土壌ができていけば、これまでにない画期的な発明や素晴らしいイノベーションがどんどん日本から生まれてくるようになるでしょう。少しずつアクセルを踏み直していこう。スピード上げて社会の再構築を進めよう。それがいずれ日本経済のみならず、日本国全体の再生に繋がることは言うまでもありません。

さぁ、一緒に日本を変えていこう

http://twitter.com/shibunet
twitterでも議論が白熱しています。皆様の参加お待ちしています。
ハッシュタグ:#gakkou #kyouiku など。